常識とゆうのはなんなんだろう

  • 2017.08.01 Tuesday
  • 22:50

こんばんは!

極楽錠前のKすがです。

 

大人になったらある程度常識がないといけないとか、「これくらい常識でしょ!」とか、そんな言い方があったりします。そういう言い方を知っていますが、私はあまり常識がないような気がします。

はた目から見ると、「Kすがさんは、ちゃんとしている」みたいに思われがちなので、「さぞかし常識的でしょう」と思われる場合もあると思いますが、基本、常識という概念は疑っています。

常識とは「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」だそうですが、あまり自分が健全ではないのと、一般人が共通に持っている、ものが良く私にはわからないことが原因です。

 

太宰治の「人間失格」の中に、主人公が薬中になって、自殺未遂したり、心中して女だけ死んだりとかしているときに、友達から「そんなことをしていたら、お前、世間が許さないよ」と言われます。で、主人公は「世間ってなんだ?世間ってのはあんたのことじゃないのか?」と思うわけです。その感覚というのが、私には非常に共感できて、「世間っていうのは、その人が思う自分を中心とした世界」と思っています。なので、人間の数だけ世間があってもおかしくない。これと同様に、だれかに「これは常識だ」と言われた場合、「それはあんたの常識だろ」という気持ちが私の中にあります。なので、人間の数だけ常識があってもおかしくない。

 

ただ、そうはいっても、各々の「世間」や「常識」にまったく重なりがないわけじゃないんだと思います。ある程度、重なったり、あるところではずれを生じていたりする中で、まあまあ「常識的」なラインが、割と自分に近い「世間」の中でできているのだろうな。と思います。それが、なんとなく世の中をスムーズに生きやすくしてくれる分には、それもアリなんだろうという気が最近はしてきました。もちろん、人間が生きにくくなるような常識はいらないと思いますけど。ただ、以前は、自分で常識にとらわれないように、ということを考えてきましたが、最近はそればかりじゃなくてもいいのかな、と思うようになりました。お互いに齟齬があった時に、自分の感覚と相手の感覚のずれを解消するために、「こういう風に考えるのは一般的じゃないか(要するに常識的ってこと)」というまとめかたをするのも、アリなんじゃないかと。

 

なぜなら、結局、「こうしてもらえたらうれしい」とか「これだけは嫌」というのも個人の感覚から発生しているものですが、それに齟齬が生じたとき、大枠で合意が取れそうなところに照準を合わせて話をしていったほうがいいような気がしてきたからです。人間、いろんなバックグラウンドがあり、いろんな感じ方をする人がいて、それでいいんだと思います。けど、感情的な齟齬があった際に、どこに照準を合わせてずれを修正していく原動力が、関係者間の力関係だけになるのも、あまりよくないような気がしています。そういったときに、「多くの人が合意できそうなライン」みたいな意味で、常識というものも、有効に使える時があるのかもしれないな、と思います。もちろん、常識っていうものにも、何かしら意味がほしいなって思っちゃいますけど。それも私の限界かもしれないと思いつつ、自分でも柔軟な心と体を目指していきたいと思います。

 

演奏会まであと18日です。

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